2015年 10月 15日
古い友人の千畑さんが亡くなりましt |
10月2日元田辺製薬(現田辺三菱製薬)社長の千畑一郎さんが亡くなった。89歳である。なぜか、助教授時代より私を気に入っていただいた。グラスを回しながら、氷をガタガタ言わして、「脳の薬は基礎研究からしかできません。遠山さん、田辺、頼んまっせ。」との独特の大阪弁が忘れられない。北新地もお好きで、北新地3代美人(ご本人の命名;村田、でんでん、ロダンであったろうか)の店によく連れて行っていただいた。彼の自宅も千里ということで、12時ごろには、「遠山はん、一緒にかえりまひょか」と、ともに帰路についたものである。彼との付き合いで忘れられないのは、阪大医学部に初めての寄付講座を設置していただいたことである。1993年4月開講であった。その当時は未だ産学共同研究に対するアレルギーが残り、古手の教授からは白い目で見られた記憶が鮮明に残っている。「中枢神経は、難しいでっしゃろ。創薬にはまず、原因解明ですわ。まかせましたで。」の一言で、5年間5億の研究、分子脳機構講座、がスタートしました。医学部初めての寄付講座には臨床各科のドクターも参加し大変盛況であった。とりわけ、田辺から派遣の今泉先生ら(現広島大学医学部生化学教授)のグループによる小胞体ストレスによるアルツハイマー病の神経細胞死は小胞体ストレスを起源とする、という成果は世界を席巻した。山下、片山、堀教授などもここ育ちである。国際的にも」極めて高い成果を輩出していた寄付講座なので、5年の期間が終わっても、当然継続、と信じ込んでいた。しかし、不幸は思わぬ形で忍び寄っていたのである。寄付講座ができて4年目、千畑さんが社長を退き、後任に田中氏、側近に中島氏が着任。田中氏は千畑さんの後輩、京大農学部出身であるが、学問的実績は皆無に等しい人物である。取締役時代は千畑さんのいうことをよく聞いてたのであるが、社長になると急変、千畑路線を完璧に否定。そうなるとわが分子脳も風前の灯である。悪い予感が的中、田中新社長は、「田辺は中枢から撤退する」と宣言。勿論、私とは大喧嘩になったが、私にせいぜいできることは、宴会でのお膳をひっくり返すことぐらいであった。なんとゆうても、金は向こうが出すのやから。千畑さん曰く、「遠山はん、すんませんな、僕に見る目がなかった、ということですわ」、と。これで、千畑さんと私が思い描いた、「産学共同で神経疾患克服の結果を大阪に」という夢は瓦解する。千畑時代に開発されたカルシウム拮抗剤、動脈硬化治療薬が未だ田辺の主力製品でるあることは、なにおかゆわんである。学問が解らないトップが開発のトップに君臨する不幸ともいえる。
千畑氏のワイン通は有名で六甲の別荘には年代物のワインが多数保存されている。それとは別に千畑さんについて、どうしても触れなければならないのは、彼の学者としての側面である。千畑氏はアミノ酸合成の分野での世界的権威でもあった。特に固定化酵素の研究では群を抜いていた。固定化により触媒を連続的に効率よく使用でいるようになる。いまでは工業界では常識であるが千畑氏は固定化によるアミノ酸合成に成功し、国際酵素工学賞を受賞した。これらの研究は1960年代のこと、田辺製薬の研究成果である。私が千畑氏の名前を始めて知ったのは、卒業して数年、蛋白の同定もせなあかんなあ、と思い始めたころ、かれの著書アフィ二ティクロマトグラフィーー実験と応用に出会ったときである。千畑さんをご紹介いただいた時も、年下の私にも腰が低く、学問的高さを鼻にかけることも一度もありませんでした。大事な友人をまた一人失ってしまいました。
千畑氏のワイン通は有名で六甲の別荘には年代物のワインが多数保存されている。それとは別に千畑さんについて、どうしても触れなければならないのは、彼の学者としての側面である。千畑氏はアミノ酸合成の分野での世界的権威でもあった。特に固定化酵素の研究では群を抜いていた。固定化により触媒を連続的に効率よく使用でいるようになる。いまでは工業界では常識であるが千畑氏は固定化によるアミノ酸合成に成功し、国際酵素工学賞を受賞した。これらの研究は1960年代のこと、田辺製薬の研究成果である。私が千畑氏の名前を始めて知ったのは、卒業して数年、蛋白の同定もせなあかんなあ、と思い始めたころ、かれの著書アフィ二ティクロマトグラフィーー実験と応用に出会ったときである。千畑さんをご紹介いただいた時も、年下の私にも腰が低く、学問的高さを鼻にかけることも一度もありませんでした。大事な友人をまた一人失ってしまいました。
by amitohyama
| 2015-10-15 12:19
|
Comments(0)