2015年 09月 09日
92年間、ありがとう:母へ |
9月3日に母が亡くなりました。92歳です。十分な長生きとは言え、家族にとっては寂しいものです。母の祖父郁三が東北帝国大学皮膚科初代教授として赴任した仙台で5女として大正11年11月3日、生を受けました。祖父の東京帝国大学皮膚科学教授としての転勤とともに東京に移ります。江古田にある大きな屋敷を住まいとしたようです。その折に洗礼を受けたのですが、洗礼名は残っていません。当時の社会状況のなせる業のようです。この江古田の屋敷は戦後のどさくさでだまし取られた、と聞いています。東京で父、堀内一彌と結婚し、昭和24年大阪医科大学(現大阪市立大学)衛生学教室初代教授として父が慶応大学よりの赴任に伴い、大阪に移ります。その後、父が慶応大学に戻ることを断ったため、大阪が終生の住みかとなりました。
父は戦時中、戦後の無理が重なり、結核で片肺がつぶれた上に喘息を発症。そこで母が免許を取り、高石の家から大学のある阿倍野まで、送り迎えをすることとなりました。昭和30年代後半でルノーを運転して父を送迎する母は「颯爽としてましたな」と、昔のお弟子さんの評でした。昭和47年母が買い物に出かけている、ちょっとした間に父が急死。その時のショックは言葉で表せません。しかし、半年もすると、「生きてゆくため」と称し、和文タイプの資格を取る、今でははやりですが当時は珍しい犬のトリマーの資格を取る、そして極め付けは保母の資格を持っていたの保育園を始めたのです。これには驚きました。たしか、還暦を迎えるころまでは続けたのではないでしょうか。細かい、きっちりした人でしたので、保育園は大盛況でした。
55歳前後でしょうか、当時リヨンに留学していた私は、記念にと母をリヨンに呼びました。すざまじく拒否をしていた母をねじ伏せ、往復だけのツアーにのせ、シャルルドゴールまで迎えに行ったことが昨日のようです。フランスでの滞在を気に入ってくれたのか、これからの母は旅行三昧です。ブラジルとイラン、イラク以外はほぼ生きつくしたのではないでしょうか。もちろん北極なども。85歳の時脊椎の圧迫骨折の治療後まもなく、ハワイまで出かけたのが外国旅行の最後でした。この間外国旅行のためだけに英語を習い、「通じた!」と大喜びもしていました。PCも習い始め、犬の写真をアレンジしたりして喜んでました。またダンスは86歳ぐらいまでダンス教室に通い、高額な衣装を買い込み、発表会だ、なんだ、と出かけてました。小さい時からピアノを習っていたので音楽を聴くこと、歌うこと、エレクトーンを引くこと、仲間とのカラオケ、楽しみにしてましたね。3年前、わたくしの退職パーティーに呼んだのが公的な場の最後だったかもしれません。
92年間の人生、悔いがなかったかもしれませんが、「あんたたちに迷惑をかけたくないね」、と言い続けた母が認知症になっていったことは、残念だったでしょう。私どもも最後までずっと自宅でと、頑張ったのですが87歳ぐらいからでしょうか、「アミーちゃんの櫛をとられた」「歯ブラシを盗まれた」などの言動が出始めました。笑ったのは毎日柏餅をわたくしの目の前で食べていたのにもかかわらず、ヘルパーさんに「むすこに柏餅をとられた」と繰り返し訴えていたていたことです。母は甘いものが好きなので(私はまじめでお酒は飲めないのに、あんたは!、とよく言われたものです)出張にいくと甘いものを買ってくるのを常としていました。その見返りに、「あんたも、付き合いがあるから、大変だろ」と、小遣いをくれたこともしばしばで、内心それをあてにしていた節もあります。それも、段々食する量も減り、逆に夜中に「調子が悪い。来てほしい」とインターフォンで隣まで(二世帯住宅なので)呼出されることが多くなりました。時には数十回を超えました。また夜間の徘徊、感情の不安定など症状が進む一方でした。こちらも翌日の勤務もあり、やむをえず家から近い、すぐに行ける、ホームにお願いすることとしました。90歳のときです。2年がたち、言葉も少なくなり、誤嚥をきっかけに、流動食、とろみ食も受け付けなくなりました。好きな甘いものも、一口、二口で、「もういい!」と拒否するようになり、ホームのDrから「いつ何があっても不思議ではありません」、との言葉。「最後は自宅で」との家内の言葉で自宅に戻しました。自宅に戻った時にアミーを見た時、満面の笑みでした。 それから2か月半、発する言葉は、ありがとう、おはよう、アミーちゃん、と徐々に減ってゆき、最後は私や兄の名前は出ずに私の顔をみても、アミーちゃん。最後は本当に穏やかに息を引き取りました。4日,通夜式、5日葬送式を聖公会の聖ミカエル教会で身内だけで済ませました。ただ父の最初のお弟子さん夫妻など、父の死後45年にもなるのに駆けつけてくださったことは感激でした。わたくしのこれまでの人生、68年のうち、63年も一緒に暮らした母でした。泣くまいと思ったのですがね。葬儀の後、2匹の犬、アミー(母のプードルでしたが、危うくなったので6年前がら我が家の住人)、ジョリーも体調がもう一つ。敏感に変化を察知したようです。
母の高齢化が進むにつれ、できるだけ顔を見せるようにしていましたが、男の子というのはやさしい言葉をかけにくいものです。素直にやさしい言葉を数多くかけてやったら、と悔やまれます。葬儀の折、主教さんが、「人がなくなるときには、最後に息を吐きます。それは家族や周りの人に息を引き継いでほしいからです。キリストの復活はいつのことかわかりませんが、お母さんが遺族の心の中に生きていることは小さな復活です」。いい言葉でした。
在宅で、という国の方針ですが、家族の負担(心も体も、費用も)、並外れたものではありません。国会議員が自ら体験してから、立法をしてほしいものです(安保も)。あのしっかりしていた母の死後を看取ると、自分としてはしっかりいているうちに死にたいと思います。最悪、生前葬希望やね。医学が進歩し、長生きが加速、生殖医療が進み、無理な出産が増加する。果たして?と考え込みます。
父は戦時中、戦後の無理が重なり、結核で片肺がつぶれた上に喘息を発症。そこで母が免許を取り、高石の家から大学のある阿倍野まで、送り迎えをすることとなりました。昭和30年代後半でルノーを運転して父を送迎する母は「颯爽としてましたな」と、昔のお弟子さんの評でした。昭和47年母が買い物に出かけている、ちょっとした間に父が急死。その時のショックは言葉で表せません。しかし、半年もすると、「生きてゆくため」と称し、和文タイプの資格を取る、今でははやりですが当時は珍しい犬のトリマーの資格を取る、そして極め付けは保母の資格を持っていたの保育園を始めたのです。これには驚きました。たしか、還暦を迎えるころまでは続けたのではないでしょうか。細かい、きっちりした人でしたので、保育園は大盛況でした。
55歳前後でしょうか、当時リヨンに留学していた私は、記念にと母をリヨンに呼びました。すざまじく拒否をしていた母をねじ伏せ、往復だけのツアーにのせ、シャルルドゴールまで迎えに行ったことが昨日のようです。フランスでの滞在を気に入ってくれたのか、これからの母は旅行三昧です。ブラジルとイラン、イラク以外はほぼ生きつくしたのではないでしょうか。もちろん北極なども。85歳の時脊椎の圧迫骨折の治療後まもなく、ハワイまで出かけたのが外国旅行の最後でした。この間外国旅行のためだけに英語を習い、「通じた!」と大喜びもしていました。PCも習い始め、犬の写真をアレンジしたりして喜んでました。またダンスは86歳ぐらいまでダンス教室に通い、高額な衣装を買い込み、発表会だ、なんだ、と出かけてました。小さい時からピアノを習っていたので音楽を聴くこと、歌うこと、エレクトーンを引くこと、仲間とのカラオケ、楽しみにしてましたね。3年前、わたくしの退職パーティーに呼んだのが公的な場の最後だったかもしれません。
92年間の人生、悔いがなかったかもしれませんが、「あんたたちに迷惑をかけたくないね」、と言い続けた母が認知症になっていったことは、残念だったでしょう。私どもも最後までずっと自宅でと、頑張ったのですが87歳ぐらいからでしょうか、「アミーちゃんの櫛をとられた」「歯ブラシを盗まれた」などの言動が出始めました。笑ったのは毎日柏餅をわたくしの目の前で食べていたのにもかかわらず、ヘルパーさんに「むすこに柏餅をとられた」と繰り返し訴えていたていたことです。母は甘いものが好きなので(私はまじめでお酒は飲めないのに、あんたは!、とよく言われたものです)出張にいくと甘いものを買ってくるのを常としていました。その見返りに、「あんたも、付き合いがあるから、大変だろ」と、小遣いをくれたこともしばしばで、内心それをあてにしていた節もあります。それも、段々食する量も減り、逆に夜中に「調子が悪い。来てほしい」とインターフォンで隣まで(二世帯住宅なので)呼出されることが多くなりました。時には数十回を超えました。また夜間の徘徊、感情の不安定など症状が進む一方でした。こちらも翌日の勤務もあり、やむをえず家から近い、すぐに行ける、ホームにお願いすることとしました。90歳のときです。2年がたち、言葉も少なくなり、誤嚥をきっかけに、流動食、とろみ食も受け付けなくなりました。好きな甘いものも、一口、二口で、「もういい!」と拒否するようになり、ホームのDrから「いつ何があっても不思議ではありません」、との言葉。「最後は自宅で」との家内の言葉で自宅に戻しました。自宅に戻った時にアミーを見た時、満面の笑みでした。 それから2か月半、発する言葉は、ありがとう、おはよう、アミーちゃん、と徐々に減ってゆき、最後は私や兄の名前は出ずに私の顔をみても、アミーちゃん。最後は本当に穏やかに息を引き取りました。4日,通夜式、5日葬送式を聖公会の聖ミカエル教会で身内だけで済ませました。ただ父の最初のお弟子さん夫妻など、父の死後45年にもなるのに駆けつけてくださったことは感激でした。わたくしのこれまでの人生、68年のうち、63年も一緒に暮らした母でした。泣くまいと思ったのですがね。葬儀の後、2匹の犬、アミー(母のプードルでしたが、危うくなったので6年前がら我が家の住人)、ジョリーも体調がもう一つ。敏感に変化を察知したようです。
母の高齢化が進むにつれ、できるだけ顔を見せるようにしていましたが、男の子というのはやさしい言葉をかけにくいものです。素直にやさしい言葉を数多くかけてやったら、と悔やまれます。葬儀の折、主教さんが、「人がなくなるときには、最後に息を吐きます。それは家族や周りの人に息を引き継いでほしいからです。キリストの復活はいつのことかわかりませんが、お母さんが遺族の心の中に生きていることは小さな復活です」。いい言葉でした。
在宅で、という国の方針ですが、家族の負担(心も体も、費用も)、並外れたものではありません。国会議員が自ら体験してから、立法をしてほしいものです(安保も)。あのしっかりしていた母の死後を看取ると、自分としてはしっかりいているうちに死にたいと思います。最悪、生前葬希望やね。医学が進歩し、長生きが加速、生殖医療が進み、無理な出産が増加する。果たして?と考え込みます。
by amitohyama
| 2015-09-09 13:11
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