2015年 03月 24日
茶花’ちゃばな)の心:裏千家よりの受け売り |
3月も末になり一斉に庭の花が咲きだしました。友人の裏千家家元の藤井さんがよく話していたことを。茶室は4畳半。そこに入ると目につくのは掛け軸と茶飲み、そして湯を沸かす鉄瓶でしょうか。普通これらを見て、「これはええもんでしゃろな。いかにも高そうですわ」、感心する人がいかに多いいか。「本当に見てほしいものは床(とこ)の間の茶花」(ちゃばな)なんです。野で摘んでただなんですが」、と。生け花は豪華でそれはそれでええのですが、茶花はホンマの花の美しさを引き出さなあかんのです。せやから温室の花は使いません。風雪に耐えた野の花こそ、ホンマに美しいのです。足で花を捜し、それを技(わざ)ではなく、心でいけるのです。崖の上の風に耐えた花なんか、最高です。振り返ってみると、見かけにとらわれていないか、相手のいいところを引き出せているか、この言葉は重みをもって感じたものです。また千利休は茶花に白椿のつぼみをよく用いたそうです。椿の花はポトッと落ちるので戦国武将が忌み嫌う花です。それをあえて用いたこと、つぼみを使ったことを武将たちはどう感じたのでしょうか。忌み嫌われた花、そのつぼみを用いるという発想は、旧来の発想にとらわれずに進むべし、といいたかったのでしょうか。茶花の心、組織のリーダに求められていると思いますが、果たしてそのような心を持つリーダはいるのでしょうか。自戒と嫌みを込めて、今回は上品な話で。
by amitohyama
| 2015-03-24 10:35
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